勇気ある夫に乾杯
私と夫は、六十歳を過ぎた頃から出癖が付いてしまい、月に二〜三回の団体ツアーに参加しています。北海道や東北地方は、夫が最も好きな所でどちらも十数回も行っています。そして夫は、バスガイドの説明が好きで、今までの説明に無かった珍しい話を聞いたり、独学を確かめることが唯一楽しみのようです。
つい最近、超格安旅行代金で北海道にニ泊三日の旅行した時のことです。
羽田空港から千歳空港着陸すると、添乗員とバスガイドが旅行中の目印となる旗を掲げて、空港ロビーで私たち旅行者を迎えていました。普段よりバス台数が多いらしく、乗せ忘れのないように号車番号を必死に呼びかけていました。各号車には何人かでまとまったグループがいくつも乗るようで、その混雑振りはものすごく、何処に集会すれば良いのか不安の一瞬でした。
私たちは、最後から二台自の六号車で、乗客全員無事に乗り席に落ち着きました。今までこれ程大勢のツアーに参加したことがなかったので、この先の行程がとっても心配になってきました。
人のざわめきは、空港ロビーから車中まで。まるで小学生の遠足よりもひどい有様でした。私と夫は、バスが発車でもすればどうにか治まるだろうと我慢していました。
そのとき突然、二人掛けの窓際に座っていた夫は、急に立ち上がり後部座席の乗客に向かって、
「ここに乗車している皆さん。お願いですよ、もう少し静かにしてくれませんか。私は、目が見えないから、バスガイドさんの話を聞くのが楽しみで来ています。」と頼み込むような口調で言いました。
「だって、ガイドさんの声がうるさいからしょうがないでしょ。」と甲高い怒鳴り声が遠く後ろの方から返ってきた。夫は、その返事に憤りとその人の心の貧しさを感じたようでした。
「これは、観光バスでしょう。分かってくださいよ。お願いしますよ。」
車内のざわめきは、一瞬途切れ静まった。バスガイドさんは、マイクを手に何食わぬ顔で朗々と、これから旅する行程を説明し続けていました。
私たちのような視覚障害者は、健常者と一緒に歩くだけでも大変なことで、その上配布された印刷物も読み書き出来ないから添乗員やバスガイドの説明は、ちょっとも聞き逃せない重要な事柄でした。
私は、この先三日間どんな苛めに会うかと、何より先に感じました。普段は静かで何があっても我慢をしている夫なのに、こんな時に、どうして………。
「ねえー、お父さん。私達よりもずっと先輩で、柄の良くない団体がこのツアーにいるみたい。どうするの。」
「どうしようもないよ、ゆったんだから」夫は、平然とした態度でガイドの話に聞き入っていました。
どれほど走ったのか。サービスエリアでトイレタイムがありました。夫と二人でバスから降リて車のナンバーを確認しその前を建物に向かって真直ぐ歩いた。ぶつかった店やゴミ箱やベンチなどを目標にして自分が乗るバスを迷わず逸早く見つける、私なりの何時もの方法で行きました。
先ず夫を男子トイレに立たせ、自分も用足しして、戻ると夫はもう外で待っていた。混雑を上手にすり抜けられ時間がまだあったので、夫と二人で散歩しながら、この場所でしか手に入らない珍しい食べ物を少しだけ買ってバスに乗りました。
心配していた嫌がらせもなく、むしろ、乗客の数人が私たちの傍に近づいては、耳元でお礼の言葉を掛けて行きました。
「良かったわ、言ってもらって………。」
「何時、静かになるのかと我慢してたの。」
「誰が止めるかといらいらしてたのよ。」
その言葉の最後には、「ありがとう。」とお礼の言葉がありました。
その晩のことです。夫は、意外なことを言い出したのです。
「ねえー、お母さん、大浴場に入りに行こうよ。」
私は、あまりの驚きに何も言えませんでした。
私の夫は、33年前に事故で失明してから旅行に来ても、他人と一緒に温泉に浸かったことはいまだ一度もありません。始めのうちは、温泉に浸かってもらいたくて、何年となしに言い続けてきましたが説得には応じませんでした。夫にはそれなりの考えがあるのだと理解して、いまはもう、何も言わないことにしていました。
「えーっ。内風呂に入ると思って、もう用意できてるよ。」
「今日は、お母さんと一緒にお風呂に行ってみるよ。」
「だって、男女別個よ。」
「そりゃー、分かってるさ。」と夫は、行く気満々でした。
このホテルには、何回も来ているけれど、自分がどんなに詳しく風呂の様子を夫に説明しても、健常者がひと目で風呂場を見て分かるようには、教えられないと悩みました。『いっそ、思い切って夫を大浴場に放牧させて、夫の思い通りにしてあげようか。それとも、今回だけは、内風呂で我慢してもらおうか。』としばらく迷いましたが、私は、夫と一緒に、初めてお風呂に行くことに決めました。
夜遅くなっても浴場は混雑していました。男風呂の暖簾をくぐりスリッパを脱ぐ所で、「お父さん。目が見えないんだから、皆さんにお願いするのよ。聞くのよ。」と辺りの人に聞こえるように言って別れました。
私は、大急ぎでお風呂に入って、男風呂の暖簾の外で待っていると、風呂上りの人たちは、私に気付き一言かけてくれました。
「今、身体を洗っているところですよ。」
「今ねえー、風呂に浸かっているよ。」
「今、風呂から出て、汗かいていたから、扇風機に当てて来ましたよ。」
「今ね。着物着てるよ。もうすぐだよ。」
私は、一人ひとりに丁寧に感謝の思いを伝えました。
まるで解説者付きの演劇でも見ているように、夫の動きが一部始終知ることができました。そして、見知らぬ人ばかりの大浴場で、理解ある人たちに親切にされていることを知り、私は、人の心の温もりに嬉しくて感動しました。
今まで私は、見える振りして、精一杯何事にも努力してきたつもりでした。でもそのことによって私は、失敗して恥ずかしい思いをしたり損したり、それに、絶え間ないケガに苦痛を味わってきました。
これからは、自分に偽ることなく、素直に気楽に過ごそうと、勇気ある夫の姿を見て、改めて反省している私です。
(第33回全国盲人文芸大会入賞作品)
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